
鎌倉幕府を開いた人は
誰だったか覚えてますか?

源頼朝!!

正解で~す🎵
今回は源頼朝が亡くなった後の
鎌倉時代を勉強していきましょう
こちらも参考にしてね!

執権政治
執権政治とは何か?穴埋め問題で確認をしていこう
頼朝の死後、頼朝の息子である第2代将軍源頼家と御家人との争いや、御家人どうしの争いが起こり、やがて幕府の実権は、頼朝の妻である北条政子の父の北条時政がにぎった
これ以降、(① 氏)は将軍の力を弱めて政治の実権をにぎる(② )という地位に就き、(③ )を行ったんだ
執権政治【解答】と【解説】
①北条 ②執権 ③執権政治

源頼朝の死後、「源氏」の時代には
ならなかったんです
鎌倉時代は「北条氏」の時代
と言ってもいいでしょうね🎵

執権政治って
将軍は名ばかり・・・
なんかかわいそうだな

平安時代の「摂関政治」と
似てる・・・
朝廷の反乱 後鳥羽上皇が起こした承久の乱とは
承久の乱について、穴埋め問題で確認をしていこう
1221年(① )は、朝廷に政権を取り戻そうとし、幕府を倒そうと(② )をおこしたが、幕府軍に敗れ、隠岐(島根県)に島流しされるんだ
乱の後、幕府は、上皇側についた西国の武士の土地を取り上げ、東国の御家人を地頭に任命し、京都には(③ )をするために(④ )を設けた
こうして幕府の支配は西国にまで広がっていったよ
承久の乱【解答】と【解説】
①後鳥羽上皇 ②承久の乱 ③朝廷の監視 ④六波羅探題

承久の乱の際
源頼朝の妻である北条政子の
頼朝への御恩を説いて
御家人たちを結束させた訴えは
とても有名です
「みなの者、よく聞きなさい。頼朝公が幕府を開いてこのかた、その恩は山よりも高く、海よりも深いものでした。みながそれに報いたいという志はきっと浅くないはずです。名誉を大事にする者は、京都に向かって出陣し、幕府を守りなさい。」(『吾妻鏡』より一部要約・現代語訳)
武士の法律の制定 御成敗式目
御成敗式目について、穴埋め問題で確認をしていこう
3代目執権の(① )は、1232年に(② )を定めた
これは武士の慣習に基づいて作られ、政治の判断の基準とされた法律で、長い間、武士の法律の見本になったんだ
御成敗式目【解答】と【解説】
①北条泰時 ②御成敗式目

御成敗式目には
次のようなことが書かれてます
- 諸国の守護の職務は、頼朝公の時代に定められたように、守護の国内の御家人を京都の守備にあたらせることと、謀反や殺人などの犯罪人の取り締まりに限る
- 武士が20年以上、実際に土地を支配しているならば、その権利を認める
今回のまとめ

今回の部分は
鎌倉時代の中でも一番大事な部分です
テストや入試でも
狙われやすい所ですよ🎵

執権政治

承久の乱

御成敗式目

言葉だけじゃなく
時代の流れもしっかりと
つかみましょう🎵
今回はここまで、お疲れさまでした!
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